奈良時代、越中国の国府(都)は伏木に置かれていました。この国府に天平18年(746)に『万葉集』を編纂したとされる大伴家持が越中国守として赴任。大海原や大自然に心動かされた大伴家持は5年間の在任中にこの地で数多くの歌を詠み、その歌が『万葉集』に収められたことから、伏木は「万葉の里」とも称されています。実に万葉集に収められた大伴家持の歌473首のうち223首が、越中で読まれたものでした。
大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)
北前船は江戸中期から明治中期まで航行した交易船で、大阪から日本海を経て北海道までを結び、各地の港で積荷を売買しながら航行した商船です。陸上で大量の物資を運ぶことが難しかった時代に、大量の物資を一度に運べる海上交通は当時の経済において重要な役割を担っていたほか、離れた土地間の情報の伝達が難しかった時代に、ただ物資を運ぶだけでなく各地の最新情報や食文化など様々な文化を離れた土地にもたらした北前船は、「動く総合商社」ともいえる働きで江戸時代の経済や文化に貢献しました。
各地の寄港地では北前船が運んだ積荷を商う廻船問屋、倉庫、宿が建ち並び、とても賑わいました。古代から海上交通の要所であった伏木も例外ではなく、北前船の寄港地として栄え、最盛期には大小30ほどの廻船問屋がありました。
北前船による富の流入により商家が発展したほか、祭礼や芸能も充実し、独自の港町文化が形成されました。
川崎源太郎 著『中越商工便覧』,川崎源太郎,明21.11. 国立国会図書館デジタルコレクション
廻船問屋から実業家に転身した藤井家の尽力により伏木港は三菱汽船の定期航路となったほか、藤井家による西洋式灯台や私設測候所の設置や港の修繕・道路整備を経て、明治32年(1899)伏木港は全世界と貿易が許された「開港場」に指定され、県内で最も整備の進んだ近代港として発展。1910年代後半からは伏木港周辺への工場設立も進み、臨海工業地帯が形成されました。
1920年代に入ってからは新興の事業家も伏木の発展を支えました。特に棚田家は廻船経営を基盤に海運・木材業・商社の垂直統合経営を行い、その収益を伏木の会社に投資することで伏木の工業化を定着させるなど、実質的に伏木の近代化を担いました。
大正2年当時の伏木港